2014年1月20日月曜日

軍師黒田官兵衛を巡る旅計画

2014/01/20
軍師 黒田官兵衛 姫路

NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」
www.nhk.or.jp/kobe/gunshikanbee/
http://www.nhk.or.jp/kobe/gunshikanbee/link/index.html

姫路市ひめじ官兵衛プロジェクト
http://himeji-kanbee.jp/

1.近江 黒田村(滋賀県長浜市木之本町黒田)
福岡藩に仕えた儒学者・貝原益軒が編纂した『黒田家譜』などによれば、黒田家は佐々木源氏の末流で、近江の黒田村(現・滋賀県長浜市木之本町黒田)に住み、源宗清(宗満)のときに姓を黒田に変え、これが黒田家の始まりとされています。
2.備前 福岡(岡山県瀬戸内市長船町)
黒田家は五代高政の代になって、足利幕府内の勢力争いに巻き込まれ、木之本を離れて商業の町として賑わっていた備前・福岡(現・瀬戸内市長船町福岡)に移り住みます。
3.播磨 御着城主 小寺氏
備前・福岡で力を蓄えた黒田家は、高政の子重隆の代になって播磨に移り、勢力のあった御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任されます。その後、黒田家は重隆から職隆、さらに官兵衛へと受け継がれ、官兵衛の活躍によって天下へと翔けていきます。
4.1597年 豊前国6郡(大分県中津市)
各地の戦陣で秀吉の軍師として活躍した官兵衛は、天正15年(1587)に九州征伐の論功行賞で豊前国の6郡を与えられ、黒田家は播磨から豊前・中津(現・大分県中津市)へ。
1600年 黒田長政に筑前52万石(福岡市)
さらに慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で戦功を挙げた官兵衛の嫡男長政に対し、徳川家康が筑前52万3千石を与えたことにより黒田家は筑前・福岡(現・福岡県福岡市)に移り、明治維新まで続くことになります。

兵庫県内のゆかりの地
志方城(加古川市志方町)
官兵衛は22歳で家督を継ぎ、小寺政職の姪で志方城主・櫛橋伊定の娘を娶った。官兵衛はこの時代には珍しく一夫一婦を生涯守った。
佐用城址(佐用郡佐用町)
天正5年(1577)10月、信長の命を受け播磨入りした秀吉は、毛利方の佐用(福原)城と上月城を攻めた。ことに佐用城攻めの先陣を務めた官兵衛は、城の三方を囲み、一方をわざと開けて城兵に活路を与える「孫子」の兵法を用い(「囲師必闕」(いしひっけつ))、城主、福原則尚を討ち取るなど目覚ましい活躍をしたと伝えられる。
三木城跡(三木市上の丸町)
毛利氏と結び、信長に反旗を翻して籠城した三木城主・別所長治に対し、秀吉は兵糧攻めを行ってこれを落とした。
有岡城跡(伊丹市伊丹)
三木合戦のさなか、有岡城主・荒木村重が信長に背いて籠城。村重の説得に向かった官兵衛は城中の土牢に約1年間幽閉され、落城によって奇跡的に救出された。
笹の丸城跡(山崎町)
三木城、英賀城の落城の後、官兵衛は秀吉から播磨国揖東郡などで1万石の知行地を与えられて大名となり、篠の丸城を居城とした。
姫路城(姫路市)
現在の姫路城は関ヶ原合戦の後に池田輝政が築いたものだが、『姫路城史』によれば黒田氏の時代にも官兵衛の祖父重隆と父職隆が築いた小さな城があり、官兵衛はここで天文15年(1546)11月29日に誕生。この日は一面の雪景色だったと『黒田家譜』は伝える。また、官兵衛は天正8年(1580)の三木城落城後、姫路城こそ中国攻めの拠点にふさわしいと秀吉に明け渡し、秀吉はここに三重の望楼式天守を持つ姫路城を築き、天下取りの足がかりとした。
英賀城跡(姫路市)
英賀城は播磨の守護大名であった赤松一族の城で、嘉吉の乱の後、勢力を失い没後は代々三木氏の居城となった。戦国時代の後半、天正8年(1580)秀吉により滅ぼされた。現在も英賀神社に土塁跡が残っている。
広峯神社(姫路市)
備前・福岡から姫路に移った黒田重隆は、広峯神社の御師(おし)が配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を成し、小寺氏に仕えて姫路城の城代となった。

書写山円教寺(姫路市)

書寫山圓教寺 公式ホームページ

JR・山陽電鉄 姫路駅前から、神姫バス書写ロープウェイ行」で終点下車(約30分)。
一日修行体験、5000円、4月26日、5月24日、10:00-17:00、079-266-3327
健康道場、12000円、4/26,27、5/24,25、6/21,22、8:00-16:30

塔頭 壽量院(タッチュウジュリョウイン)、 精進料理、5000円、五名から予約要
円教寺会館 おもてなし御膳、079-266-3240

宿泊、079-266-3240

姫路城 好古園 レストラン活水軒
活水軒官兵衛御膳、2500円、限定一日10膳、要予約
黒田官兵衛五国巡り

より大きな地図で 黒田官兵衛 五国巡り を表示

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